常滑の山車と伝統行事の紹介
常滑の山車は全部で23輌あり、各区で形状や仕掛けもさまざまで中には船型もあります。その中から今回の山車まつりメイン会場に勢揃いする18輌と、各区で伝承される伝統芸能・伝統行事をご紹介します。
マップ上の山車名をタップすると詳細情報が見られます。
山車エリアマップ
大野南区 十王町
梅榮車
約230年前の1785(天明5)年、十王町に最初の山車「榮遊車」が誕生しました。
その後老朽化が進んだ為に売却し、1848(嘉永元)年、二代目となる現在の「梅榮車」が新たに建造されました。
当時575両を掛けて作られたこの山車は、手がけた職人の殆どが名古屋の名工で、先代と同じく二層外輪式の名古屋型であり、知多型の多いこの地域では珍しいものです。これは古くから、大野が名古屋と交易が盛んであり、徳川家とも深い係わりがあったためと言われます。
梅榮車の上段には大将「菅神渡唐像(菅原道真)」その前に「横笛童子」蘭陵王に変身する「面被り童子」前段には「麾振り唐子」と計4体が載せられています。製作は何れも名古屋のからくり人形師「二代目隅田仁兵衛・眞守」によるものです。
演目としている蘭陵王は今日、日本の舞楽で最も演じられているものです。
大野北区 高須賀町
唐子車
高須賀町唐子車は、寛保元年(1741年)に創建された、現在曳かれている知多半島の山車では最も古いと云われる山車であります。上山にからくり人形を載せた名古屋型(二層四輪外輪式)で、常滑市有形民俗文化財に指定されています。代表彫刻は、欄間が「松」、麾振り台が「龍」で、彫刻家・瀬川治助重光の作です。水引幕は、狩野派画家森高雅の「鳩群飛」という作品です。からくり人形は、天明5年(1785年)蔦屋藤吉の作である麾振り、大唐子、小唐子、塩土老翁の4体からなり、塩土老翁の前で、大唐子が小唐子を肩車に乗せ、松の木に下げられた太鼓を囃子に合わせて叩くという離れからくりです。唐子車の勇壮な姿は、毎年5月3日(宵祭り)、5月4日(本祭り)の大野祭りで観ることができます。
矢田区
御幣車
昭和62年、「みんなで楽しみ、子供達の絆を深めよう」と子供会で山車祭りを発案、地元大工と素人集団が半年かけて「子供会の山車・御幣車」を完成させ、同年秋に子供達約130名と役員で区内を引き廻し、子供会山車祭りが始まった。御幣車の由来は、昭和30年頃までは、3頭の馬を走らせた祭りを行っており、先頭から一馬には御幣、二馬に桜、三馬に柳を付けていた。この古い伝統を将来に伝えたいと、山車には一馬と同じ御幣を飾り付け「御幣車」と命名した。数年後、管理を子供会から区に移管し、区民の山車祭りが始まった。
その後32年の間に、建造当時の大工を中心とした創作集団と近隣の彫刻愛好家により改修等が繰り返され、今の御幣車となった。平成16年に地元手芸クラブを中心とした婦人達により矢田万蔵をモチーフにした追幕を新調。平成25年には、牡丹と獅子を横幕にあしらい、水引き幕も創作し豪華さを増した。
御幣車は建造時から現在に至るまで全て素人集団にて作り上げた山車で有り、これからも手造り山車としての愛着を更に深め、地元の宝として末永く守っていきたい。
瀬木区
世楽車
世楽車創建は明治10年頃に武豊町富貴より山車購入からと伝わる。
現在の山車は大正3年に上半田南組より購入した事が瀬木区に残る山車記録帳で分かる。建造年は現存する旧部材、上山皿天井の裏に【天保拾三壬寅年三月吉辰出来藤原氏岸幕賢隆】と墨書きが残り判明する。現在でも建造当時の【壇箱】【持送り】【高欄隅扠首錺金具】を使用し壇箱内側の番付けは瀬木では使わない平仮名の墨書きが有り、古い木箱にも【南車】【上山屋根箱】と書かれ当時の名残を思わせる。
令和6年は世楽車の象徴でもある「瀬木のお木偶さん」麾振り(ざいふり)人形の衣装と山車提灯の復元新調を行う。お木偶さんは平成17年~18年萬屋仁兵衛氏により復元新調される。初代お木偶さんは明治10年頃名古屋から購入。江戸末期の浅野新助作と伝わる。令和6年で天保13年建造当時の部材は182年、初代世楽車創建から147年、大正3年現山車購入110年、昭和24年世楽車大改修から75年の月日が経ち、平成31年に台輪一式を新調し瀬木区の宝物を先人から受け継ぎ後世に残せる様に継承している。
【世楽車】
常滑市有形民俗文化財
【囃子(山車・勇み)】
常滑市無形民俗文化財
奥条区
常石車
常石車は、明治45年阿久比村の宮大工岡戸峯次郎により建造され、平成30年に常滑市有形民俗文化財に指定された。
代表彫刻の脇障子・壇箱の「七福神」、持ち送りの「力神」は初代彫常の作である。
水引幕は白羅紗に金糸の縞海老の刺繍で、平成13年に復元新調された。また、追幕は常石車が常滑市有形民俗文化財の指定を受けた同年(平成30年)に新調された。
祭礼時に神前で奉納されている前棚の常石車三番叟は、六代目玉屋庄兵衛作で、祭囃子の「神鳴り・早舟」とともに昭和46年に常滑市無形民俗文化財に指定され、奥条囃子保存会によって継承されている。
山方区
常山車
現在の山車は、大正4年に阿久比の宮大工岡戸峰治郎によって建造された物で、知多型と呼ばれる構造になっている。
平成5年に宮大工岡戸昭夫によって堂山の高欄、斗形を改修、山車を飾る主要な彫物、壇箱の富士の巻狩り、前壇左右の脇障子の神功皇后と武内宿禰、その他蹴込、持送りの「力神」、前山の蟇股、大平鰭、懸魚等は、昭和初期の初代彫常の作。
水引幕は「白羅紗地に唐獅子牡丹」である。
前壇のからくり人形は、大正8年6代目玉屋庄兵衛の作になるもので、神楽囃子にあわせて立ち上がり、両手に持った鈴と扇を揺らしながら巫女舞をする。
古場区
古場車
古場区の祭礼は、古場神明社の例大祭として4月第2土曜、日曜日に行われている。祭礼では、山車の曳き廻し(平成26年復活)、秋葉山での少年少女会員の祭り囃子演奏披露、獅子舞奉納(平成18年復活)が行われ地域を盛り上げている。
現在の山車は、知多半島屈指の変わり種、関西の「だんじり」を知多型風に改良(車輪、車軸、曳き綱、輪がけを新調、梶棒等を改良した特殊な形状である。昭和59年に大阪府泉佐野市下瓦南地区で製作され、平成3年に、芦屋市三条地区が購入し平成14年まで曳き廻されていた。彫刻は龍が「紅染」、武者物「土呂幕」、鯉「土呂台」、川中島の戦い・五条橋の戦い「三枚板」に施されている。
大谷区 浜條
蓬莱車
蓬莱車は、天保13年(1842)横松(阿久比町)の宮大工岸幕善兵衛により建造されたものである。大谷地区は若衆組織が祭礼を運営し、多くのしきたり伝統を今に伝えている。主な彫刻は立川常蔵晶敬の作品である。代表彫刻は壇箱「唐子と犬」、蹴込「龍」、脇障子「関羽と張飛」、前山蟇股「中国仙人列伝」である。
三番叟は能の「式三番」で千歳、翁に次いで3番目に出るところから名づけられたものである。三番叟は小学生3人の操りで行われている。蓬莱車の三番叟は翁(爺)、東櫻車は塩(婆)長寿を祈願するものである。
【蓬莱車】
常滑市有形民俗文化財
【祭囃子】
常滑市無形民俗文化財
大谷区 奥條
東櫻車
東櫻車は明治初期建造と推定され、大正7年(1918)に大改修を施し、比較的新しいお車にもかかわらず、各部を塗りと箔押しで仕上げています。主な彫刻は初代彫常の作品であり、壇箱「力神」蹴込み「竹に虎」脇障子「日本武尊・須佐之男」が代表彫刻になります。上山の四隅には「松」と「桜」を飾っています。
大谷山車祭りの起源は宝暦年間以前ともされ起源が古く、知多半島の中でも早い時期から行ってきました。見所は、八幡社とお旅所(大谷遊園地)での果敢な曳き回しと盛大な清めの塩まきで、提灯を飾り付けての曳き回し姿も美しいものです。祭当日は八幡社にて、小学生の巫女による「浦安の舞」も奉納されます。
大谷では現在でも若衆組織が祭礼を運営しており、多くのしきたり・伝統を守り、今に伝えています。
【祭囃子】
常滑市無形民俗文化財
坂井区
松尾車
坂井には、1755年から松尾神社奉賛会所有の山車があり、松尾神社内の山車蔵に所蔵されている。山車は、梶棒が主柱の内部にある旧形式であり最上部の上山も滑車で上下する仕組みになっている。彫刻は唐獅子牡丹、飛龍、唐草、大黒、牡丹花に丸、丸玉と獅子、波、乗馬の武士など多種多様にほどこされている。お囃子は、攻め、早船、狂言、道行、早い攻め、先代、夕日出、御婆、長船、新囃子、関所、お神楽、下がりはかえしを、笛、楽鼓、締太鼓、大鼓、鼓で演奏する。
祭礼では、山車の上を舞台として、糸からくり人形芝居を奉納することが古くから行われている。物語の演題は、「軍術誉の白旗鬼一法眼館の段」といい、源義経を主人公にした恋と活劇の物語で、鬼一法眼の娘皆鶴姫が義経の愛を得るため父の兵法書を盗み出し渡す濡場、それを取り返しにやってきた平広盛と娘との戦いなどで実に面白い。そして、この人形操りの技術は若衆制度によって古来より伝統的に受け継がれ今日に至っている。
小鈴谷区
白山車
安永年間、白山宮正月十八日・九月四日湯取神事天王宮六月十五日獅子舞、と盛田家文書に記され、村名通り山車の曳き廻しに適さない地形でした。明治三十八年日露戦争凱旋祝いに国中が湧き立ち、村で凱旋門や軍馬人形等を作り皆が仮装提灯行列で祝いをし、盛田本家から乃木大将と大砲を載せた(重箱車と呼ばれた)人形山が作られ、これが初代の御車となりました。その後も人形飾りや提灯飾りをし、大正四年に盛田彦太郎御成婚祝いに前山が寄進されたが若者達は満足せず、同七年に鈴渓青年團が本式の祭車が欲しいと発起し、横松村の宮大工江原新助に建造を依頼し彫物は半田の新美常次郎に依頼し囃子は上野間村から伝承され同九年より曳き廻されるようになったのが現在の御車です。
また昭和六年に盛田敬三が発起者となり地元大工若子武一作の出樋大廻しによる絡繰付糸操り上山人形が奉納されました。令和二年に建造百周年を迎え、先人達の想いを受け継ぎ、経年劣化した部材や彫刻の修復を終え次なる百年への歩みを始めました。
保示区
保楽車
のである。その後平成4年堂山高蘭斗形(どうやまこうらんますがた)を改修して現在に至っている。
からくり人形の初代「桃太郎」は大正13年(6代目・玉屋庄兵衛)の作である。前壇に置かれた大桃が2つに割れ、甲冑姿の桃太郎が現れて采配と軍扇を振りながら武者振りを見せる。神楽囃子が終る頃、再び桃が閉まるようになっている。
保楽車の壇箱の彫刻は浦島太郎が玉手箱を手に持ち亀の背に乗って竜宮城から帰る情景が彫られ、蹴込みには七福神が乗った宝船が彫られている。
市場区
常磐車
「常磐車」の創建は、明治以前に名古屋名道町から購入した舟形の山車に始まります。この山車は、「柴舟車」と呼ばれており、その後、多屋に売却されたと言われています。現在の「常磐車」は、大正13年に宮大工である岡戸峰次郎によって建造されました。常磐車の特徴は、前壇に麾振り人形、追幕に蘭陵王の稚児舞の刺繍、水引の紺地に鳳凰の刺繍です。また、昔の色街の面影を表す赤い提灯が特徴です。
令和6年に建造100周年を迎えました。
【代表彫刻】
壇箱「桃太郎凱旋の図」(初代彫常)、脇障子「天の岩戸」(初代彫常)、前山蟇股「風神・雷神」(初代彫常)、前山懸魚「鳳凰」(彫弘)
【からくり人形】
麾振り人形(二代目萬屋仁兵衛:平成24年新調)
北条区
神明車
初代神明車は、明治42年に諏訪神社を氏神とした東海市高横須賀町南脇組より譲り受けたものです。同じく祭囃子も伝授されました。
時は流れ、戦後老朽化が目立つことから昭和36年より二代目神明車の再建が始まり現在に至っています。知多型外輪の形状は初代を踏襲したものです。
また、令和6年には山車保存会設立60周年記念として、上山高欄周りに彫金(村井義幸氏作)が取付けられました。
【代表彫刻】
檀箱『力神、四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)」、前山懸魚『鳳凰』、脇障子『昇り龍、降り龍』、蹴込『唐獅子に手鞠』、前檀上部蟇股『舞楽四図』、高欄蟇股後『応龍』(二代目彫常)前檀『龍神御札守座飾彫り』『獅子』『狛犬』(三浦佛工)
【祭囃子】
常滑市無形民俗文化財
西之口区 鄉中
西寳車
山車は天保6年(1835年)に大野橋詰町で建造され文久3年(1863年)常滑市大野橋詰町より西之口が購入。明治25年修理時、幕も新調し、さらに山車の前山に載せる麾振り人形(1体)を明治25年辰6月新調と墨書きがあることから同時に購入したと思われる。作者は不明。
水引幕は大正13年(1924年)に新調。生地、加藤宗七仕立「波と千鳥」を金糸で刺繍され素晴らしい幕である。大幕前面は「西寶車」と刺繍されている。文字書き人形小唐子は文字板が出て、中唐子は墨付け筆を操る(2体)。そして大将座の恵比寿人形(1体)は鯛を釣る。人形は計4体で構成され文字書き唐子2体は平成10年、大将座の人形は11年に横井誠により制作。平成16年高欄、高欄彫刻、屋根、台輪、塗等の修復を行った。
平成26年8月26日に常滑市有形民俗文化財の指定を受け、現在に至る。お囃子は19曲で祭礼を行っている。
西之口区 鉄砲津
雷神車
山車建造は天保13年(1842年)。名古屋市中村区(旧広井村中之切)で建造されました。江戸末期、名古屋城「三の丸天王まつり」に旧広井村中之切「張良車」として曳かれておりました。明治11年に西之口区鉄砲津が山車、人形、幕一式を買い受け、龍神車と命名され、その後「雷神車」と名前を変えました。平成5年に山車を修復し30年振りに山車まつりが復活しました。
からくり人形は前山に「麾振り人形」上山に「張良」「龍神」「大将人形」の4体があり、いずれも弘化4年江戸末期に隅田仁兵衛真守の手により作られております。
からくりは、能の演目「中国、漢の時代の張良」をモデルとした張良と面かぶり龍神が主人公です。平成22年には新たに張良にふさわしい人形囃子も完成し、からくり人形を奉納しております。平成29年には、本来の大将人形「黄石公」を修復復元し、常滑市有形民俗文化財に指定されました。
多屋区
海椙車
「海椙車」は昭和63年より地元の大工を中心に多屋区民により一年がかりで創建された手造りの山車で平成元年の春より海椙神社の祭礼時に地区内を曳き廻しています。当初は、飾りの幕がなく公民館の緞帳を切り取って間に合わせたという逸話もあります。その後、年々山車飾りの彫刻や幕を充実させ手造りの山車として立派なものになってまいりました。現在も山車の改良を繰り返し「進化する山車」は祭りのシンボルとして区民の誇りとなっております。中でも地元の名古屋友禅伝統工芸士の渡辺桂子氏の手による追幕「鳳凰」は山車を一段と引き立てています。さらに子供用の「ミニ山車」3台をこれも手造りで完成させて本山車が通らない地区内を曳き廻し祭りを盛り上げています。
大野北区 橋詰町
紅葉車
山車は、文久3年8月(1863)大工酒井久七によって創建された名古屋型であります。彫刻は瀬川治助(重光)作で、支輪(雲に星座)は、木で彫られ黒の漆地に金が塗られ、紅葉の葉は金物などで止めてあります。本祭りに飾る高欄は源氏香を配した漆塗彩色で豪華なものとなっています。飾り幕は緋羅紗で前幕に橋詰町の文字、大幕と追幕共に無地となっています。水引幕は、絹による鶴の刺繍を施したもので、下絵を喜田華堂による大変豪華なものとなっています。人形は、前唐子・小唐子(逆立唐子)・中唐子・豊太閤(豊臣秀吉)四体で、天保6年(1835年)に五代目玉屋庄兵衛によりつくられました。唐子が紅葉の幹に左手で逆立ちし囃子に合わせ首を振りながら鉦をさばき打ち鳴らします。囃子は、20曲ほどあり宵祭りに演奏する中須賀は古い仏教音楽で舟神楽といわれ市の無形文化財に指定されています。
伝統芸能/行事エリアマップ
久米区
囃子
久米区の祭礼には囃子と太鼓は欠かせません。しかし、この数年はコロナウイルスの影響でメンバーが集まっての練習や祭礼での披露ができませんでした。ですが、昨年からは少しづつ練習を再開し、今までのかたちを取り戻そうと活動しています。
活動の再開に伴って囃子方と太鼓方の着用する法被を今までの物とは違うデザインで新調をしました。
現在は人数は少ないですが、これから老若男女問わず人数を増やし「久米区お囃子保存会」として長く続けていきたいです。
矢田区
矢田万歳
発祥の証拠なる古文書は消失しているが明治以降の出稼ぎが始まる以前で百年を超えて伝承されてきたものと推測される。
萬歳が伝承文化としての認識でなく、完全に芸能として矢田地区という限定地域に連綿と保存伝承されたことは貴重であり、市内にこれに優るものはなく、県内の同類のものが既に文化財と指定を受けていることもあり、平成九年三月二十六日に常滑市無形文化財として指定された。矢田萬歳の特徴は、「門付け萬歳・御殿萬歳・三曲萬歳」とあらゆる演目を披露するところであるが、今日まで伝承されてきたすべてが認定されている。現在、全国的な地域性喪失現象の中で、大切な地域文化として「矢田萬蔵保存会」がその継承に尽力している。
榎戸区
飾り馬
私たちの先祖が、今の新田町、新浜町あたりの海岸を干拓し、松を植え、田畑にしようと努力した。しかし、築いた堤防が度重なる災害で決壊を繰り返し、くじけそうになる事も度々あった。その堤防を守るため、生きた馬を生け贄として、捧げた事もあったそうである。歯を食いしばって頑張ったお陰で、江戸時代中期ごろには生活も安定してきた。
それを祝って、犠牲になった馬の霊を慰め、村の安全を祈って、金・銀糸であしらった飾り幕をつけ、ボンネン・桜・柳の飾り花を乗せた飾り馬、3頭を巡行、奉納する祭りである。
樽水区
囃子
樽水のお祭りは津島神社の例年祭として4月第3日曜日に行われている。昭和初期には花車の曳き回しを行う形態で祭りを行っていたが、昭和40年代に花車の曳き回しが中止となり、囃子もいったん途絶えてしまった。
1990年ごろに有志の活動で囃子が復活し、囃子保存会を組織し、囃子奉納・子供たちへの伝承などの活動がはじまった。その際、大太鼓・小太鼓を積んだ囃子車が制作された。現在所有している楽器は長胴大太鼓・半切り大太鼓・小太鼓と太笛(能管)・細笛(篠笛)がある。長胴大太鼓は慶応年間(1860年代)作成のものを修繕して利用している。
現在は例年祭で2台の囃子車を曳き廻して東西に分かれてのお神楽演奏を行っている。また、地域の伝統芸能の継承を目的に、小学校での地域の伝統芸能についての出前授業を行い、囃子に興味を持った子供たちを増やす活動も行っている。
檜原区
子供神輿
檜原の子供神輿は、平成の初期に地域の子供のために、地域の大人たちがアンパンマンなどアニメキャラクターのお神輿を手造りして、白山神社まで大人たちに守られ子供たちが担ぐことから始まった。
現在保有する「檜原子供神輿」は3台、金色の鳳凰と鈴、黒漆の担ぎ棒、紅白紐で装飾されたもので、平成10年に、宝くじ助成金により贈呈され、檜原大池南に移転した檜原公会堂に保存している。
春の祭りには、檜原公会堂から白山神社まで、青い法被を着た子供たちが、安全に運ぶことができるように台車に乗せて、担ぎ棒や綱をにぎりゆっくり歩いていく。
白山神社の鳥居前で台車からお神輿を持ち上げて、参道の階段を子供と大人が協力して登っていく。